2011年10月17日月曜日

誤読メモ→宮崎学『法と掟と』角川文庫2009


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☆ご注意
・この「誤読メモ」は本の内容を僕の脳内フィルターに通してアウトプットしたものです
・本の文章の抜出ではありません
・僕がおもしろいと思った箇所を抽出しているため、本全体の要約にはなっていません

・僕が著者の意図を「誤読」している可能性もあります
・本の内容を確認したいときは、必ず原典にあってください
・★印はMarinによる注です
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p.14あたり
・アウトローというと、法なんか関係なく暴れまわっていると思う人がいるかもしれないが、アウトローであっても法の外で生活することはできない。アウトローは法に縛られずに行動する


p.15あたり
・アウトローは、法律を必死に勉強し、法の実質的で社会的な機能をつかもうとしている。そしてどう法の裏をかくかを考えている
・法の働きやしくみを利用してやろうとしてみていると、それらがどうやって法秩序を生み出していくのかが、見えるようになる


p.21あたり
・法というものは、本来絶対的ではないものを絶対的なものとして押し出すところに成り立っている。つまりフィクションで成り立っている
・アウトローは絶対的なものなど認めないから、そのフィクション性を前提に、法律を相対的にとらえる


p.24あたり
・アウトローにとっての法律的な問題とは、コストパフォーマンスで決まる。刑に服しても法律違反をして荒稼ぎしたほうがコストパフォーマンスが良いと思えば、犯罪行為をする。そうじゃなければしない


p.26あたり
・近代法は私的自治の原則の上に成り立っている。これは法律的関係を形成するのは個々人の意思によるという考え方である
・私的自治が前提になっているから、契約自由の原則が認められている
・もともと法というものは個々人の意思にもとづくもの。意思を超えたところで個々人を縛るものではない


p.28あたり
・法を考え、法を扱うには、法から出発してはダメ
・法以前、国家以前に私的自治があり、自由な契約がある。それがあるべき法の出発点


p.36あたり
・われわれは法ではなく掟から出発しなければならない
・実質的な共通点をもっている者たちが、その共通点をもとに集まった集団が内部に打ち立てる規範が掟
・仲間としての実質性や具体性がもっとずっと薄くなり、フィクションにもとづき「国民」や「国民国家」の規範となるのが法


p.39あたり
・個人や仲間が自治的に自由に活動できる場を保証するために法がある
・掟ではカバーできないところに法がでてきてカヴァーする


p.91あたり
・法律的に問題がなければ逮捕されることがない、というのは間違い
・アウトローは必ずしも反権力ではないが、権力は必ずアウトローである
・権力はアウトローが法を守ってようがいまいが、必要と機会があれば、必ずアウトローを潰しにかかる


p.92あたり
鈴木宗男事件で逮捕された佐藤優は、国家公務員だがアウトロー並みのシビアな権力観を持っている
・自分が違法行為をしていないことを確信しているが、しかし、権力が自分を逮捕するのは必然なことであると認識している

Marin Review 宮崎学『法と掟と』角川文庫2009
必読度→★★★(星3つ)


この本は「アウトロー思考」というタイトルで、ビジネス書として売ればかなり売れたんじゃないかと思います。プロモーションはもとより、表紙が大失敗すぎるw 
 
しかし、内容は文句なしにすごくいい。間違いなく人生でトップ10に入ります。

なんでそんなに感動したかというと、法律なんてなんぼのもんじゃい、政府は基本的に出てくるな、みたいな、僕がそれまでに持っていた価値観を正当化するロジックを初めて与えてくれた本だからだと思います。

おもしろいのは基本的に最初の100頁のみなので、立ち読みでもいいかも。

2011年10月10日月曜日

「アーカイブ」から「コンテンツ」を生み出す

みなさま、3連休いかがお過ごしでしょうか?

◆◇
僕は8日、9日と1泊2日で岩手出張にいってきました!  東日本大震災に関する2つのシンポジウムに参加することが目的です。今日はそのうちの一つ「東日本大震災の記録とその活用」というシンポジウムについてのレビューを書きたいと思います。

今回のシンポジウムは、「311まるごとアーカイブス」というプロジェクトの一環で開催されたもので(プロジェクトの設立趣旨やメンバー等についてはこちら)、主に被災者の方々が記録した震災関連の映像や画像等の記録データをいかに保存し、活用していくかがシンポジウムのテーマでした。

僕の考えでは、アーカイブ(記録を保存しておく場所)の管理は大きく3つの段階に分けられると思います。①記録をどうやって集めるか、②それをいかに公開するか、③公開されたものをいかに見 たり活用してたりしてもらうか、です。今回の記事では、特に②と③のプロセスについて、僕の専門である行政の情報公開と絡めて、書いてみたいと 思います。

◆◇
僕は「アーカイブ」とは何かを考えたときに、それは「ニュース番組」の反対の概念として理解すればいいのではないかと思っています。

ニュース番組はその時々の最新の話題を、なるべく早く、不特定多数の人に届けるというPush型モデルです。そこでは、速報性と話題の一般性が重視されます。それに対して、アーカイブは、過去の話題を、時間に関係なく、興味を持った人が取得するPull型のモデルとして理解できます。

このように考えると、「アーカイブの活用」とは、保管されているアーカイブに興味を持った人が、それにうまくたどり着き、データをうまく利用できること、と理解できるのではないでしょうか。そうであれば、アーカイブとは不特定多数の国民が利用するというものよりも、そのデータに特に強い関心を示す一部の人々(多くの場合は研究者でしょう)が利用したいときに利用できるようにしておけばよい、ということになるでしょう。

しかし、今回のシンポジウムでは、アーカイブを広く一般の国民に見てもらい、震災の記憶を風化させないためにはどうすべきか、というかたちで議論が進んでいきました。

これはもはや「アーカイブの活用」というレベルを超え、「コンテンツの発信」というレベルの議論になっています。言い換えれば、震災関係の記録資料を、特定の人がごく限られた目的で利用する「アーカイブ」に留めるのではなく、さまざまな人々が多様な方法で利用する「コンテンツ」として位置付けるべきだ、ということです。

◆◇
僕が研究している行政の情報公開ではよくある問題として、「情報を公開したまでは良かったが、公開したところで誰もそれを利用してくれない」ということがあります。

こうなってしまう原因は、①提供される情報が十分に整理されていない、②情報の受け手側にそれを活用するノウハウがない、ということに大きく集約できます。

は情報の送り手側の問題です。情報のタグ付け(分類)がしっかりされておらず必要な情報が検索に引っかからない、また、膨大な情報が未編集で掲載されるため、情報の取捨選択が難しくなっています。

これに対して②は、利用者サイドの課題です。高度な内容でかつボリュームが膨大な行政情報をうまく整理し、理解するのは大変な作業であって、そもそもそのような作業を専門としていない限り、そんなことをしている暇はないわけです。

こうした行政の情報公開の現状を考えると、震災関係のアーカイブスの公開も、同様の課題に直面する可能性が高いことがわかると思います。

◆◇
東日本大震災からまだ7ヶ月ですから、しばらくは市民の防災意識が高い状態が続き、震災情報へのニーズもあると思いますが、1年、2年と時間が立っていけばそのニーズは大きく低下していくでしょう。

そうなっていくときに必要なのは情報の送り手の側が、情報の受け手のニーズを新たに作り出す、ということです。具体的には、検索しやすい、理解しやすい、活用しやすいデータを送り出すということです。

そしてそれに加えて、ニュースの提供も重要です。ニュースの内容とアーカイブに蓄積されているデータをリンクさせる、偶然ニュースを見に立ち寄った人が、過去のアーカイブに触れる機会をつくるのです。その人が、リンクをどんどん辿って、「このニュースの背景には、こんなことがあったのか。もっとこのテーマについて知りたい」と思ってもらえれば大成功です。これがニーズをつくるということです。

◆◇
今の時代は情報が溢れています。ただ漫然とアーカイブをつくるだけでは、それは情報という大河の一滴として、そのままグローバルな情報の海へと流れ出してしまうだけでしょう。それでは、どんなに有益なアーカイブでも人々に与える影響は限定的でしょう。

しかし、戦略的に情報を送り出し、それが一度人々の琴線に響けばそれは一気に広まります。少しの工夫が大きなインパクトの違いを生み出すのです。



「神は細部に宿る」




※ニコニコ動画のプレミアム会員になるとこのシンポジウムの動画が視聴できます。










2011年10月7日金曜日

すべての本屋はヴィレヴァン化する?


お昼に論文書きの息抜きに、池袋西武までうどんを食べに出かけました。
(→屋上にさぬきうどんの名店「かるかや」があるのです。山菜うどんがおすすめ!)

ついでに、屋上とデパートの連絡階(9階)にある、三省堂書店でよりみち。

そこでリクルートが出している『都心に住む』という本が目にとまりました↓




手に取ってみると、なんか分厚い。
付録が入っているようなのです。

表紙を見てみると↓


こんなものがついているというのです。
まぁ、とりわけ必要じゃないけどあったら便利、というものです。

それで本の値段を見てみると↓



まじ? 

この付録がそこらへんで売ってたら1000円といわれてもおかしくないんじゃないか?


雑誌の内容自体にも興味がないわけじゃなかったし、とりあえず買ってみました。


◆◇

その雑誌を読みながらふと、紙の雑誌を買うのは久々だな、と思いました。

数か月前にiPad2を購入してから、もっぱら雑誌はiPadで読んでました。

本屋にいってお目当ての雑誌を立ち読みしてから、iPadでデジタル雑誌を買う、なんてこともよくやってます。

なぜ、今日、僕はひさびさに紙の雑誌を買ったのか。
それは「おまけ」が付いていたからです。

いま多くのファッション雑誌などでは、ポーチやらバックやらの付録をつけることが一般的になってます。(→付録つき女性誌

一流ブランドのそれなりのクオリティの小物がおまけでついてくるのです。それでも値段は1000円以内と、おまけなしの雑誌の価格と大差はないです。

もっと驚きなのは、ブランドムックなるものです。

雑誌のようなかたちの箱のなかに、バックやら服やら小物やらが入っている。
これはもはや雑誌ではない、ですよね・・・。

今日僕がいった池袋西武の三省堂にも、レジ近くの良い場所にブランドムックのコーナーが設置されてました。

◆◇

ふと、本屋は雑貨屋として生き残っていくしかないのではないかという考えが浮かんできました。

おまけ付きファッション雑誌はまだしも、ブランドムックはもはや本というよりは雑貨に近いものです。

僕はほとんどの雑誌をiPadで購入していますが、今後このような人がどんどん増えていくのは間違いないでしょう。

デジタル書籍・雑誌の時代に、リアル書店が紙の書籍・雑誌を買ってもらうには、デジタル書籍にはない付加価値をつけなくてはなりません。

僕は、おまけつき本、雑貨本というのは、デジタル書籍にはないおもしろい付加価値をつけているなーと思います。(もちろんコスト的には厳しいでしょうし、長続きはしないと思いますが)

と、考えると、今後おまけつき本やら、雑貨本が増えていくと、本屋はどんどん雑貨屋に近づいていくのではないか、とも考えられるわけです。

◆◇

あれ、雑貨+本屋ってすでにそういうコンセプトでやっているお店ありますよね・・・。

「遊べる本屋」、ヴィレッジ・ヴァンガード。

僕は多くの本屋で雑貨本が増えていけば、多くの本屋がヴィレ・ヴァンみたいになってくれるんじゃないかとひそかに期待しているのです。

そしてそのうち、本というのはその流通量のほとんどがデジタルになり、紙の本は内容以前に物自体として価値を持つ「おしゃれグッズ」と化すのではないかと、そんな妄想もふくらみます。「本の雑貨化」、とでもいいましょうか・・・。

そうなったときに、本屋はもはや雑貨屋に近いものになり、となると、それはヴィレ・ヴァンそのものなんじゃないかと。

紙の本というものに価値がなくなったときに、リアル本屋さんが生き残るには、ライフスタイルと本をうまく絡めるヴィレ・ヴァン的戦略をとるということもありうる気がするのです。

まぁこんなのはただの思いつきですが、書籍・雑誌のデジタル化は否応なく進み、本屋さんの経営が厳しくなることは間違いありません。

HMV渋谷店がなくなったように、紀伊国屋新宿店がなくなる可能性だって、僕はあると思います。
いずれにせよ、本を中心とする商業圏・文化圏は大きくかわっていくと思います。

◆◇

雑誌おまけ、開けてみました。

なんかすごい立派!

買ってよかった(笑)

2011年10月6日木曜日

誤読メモ→高橋秀美『からくり民主主義』新潮文庫2009















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☆ご注意
・この「誤読メモ」は本の内容を僕の脳内フィルターに通してアウトプットしたものです
・本の文章の抜出ではありません
・僕がおもしろいと思った箇所を抽出しているため、本全体の要約にはなっていません

・僕が著者の意図を「誤読」している可能性もあります
・本の内容を確認したいときは、必ず原典にあってください
・★印はMarinによる注です
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p.267あたり
「わかる」とは慣れる、ということ。最初はちんぷんかんぷんでも、手当たり次第に読み書きしていくと「わかっている」気になる。さらにそのテーマについて人に話すと、自信がついてますます「わかる」。ところが現地に出向くと即座に「わからなくなる」。

p.268あたり
現地でテーマについて話を聞いても、本当に人々が思っていることは聞き出せない。目的は「わかる」ことなので、現地の人の話に合わせないといけない。でもそうするとひとりひとりの話は「わかる」し納得する。でもたくさん話を聞いて納得と納得が重なり合うと全体がわからなくなる。

p.268あたり
たくさんの人の「実は・・・」という話を聞くと、賛成派vs反対派のような線引きができなくなってくる。境界がはっきりしなくなる。なぜこんなにわからないのか。

p.269あたり
そのわからない理由について悩んだ末、ひとつの仮説に行き着いた。それは民主主義というものが、ある「からくり」に基づいているから、というもの。「民主」というのは、「みんなが主役」という意味だが、それは「全員が主役」というのはただの理想であって、現実にはありえない。

★民主主義は実際には存在しない「みんな」を前提としているという意味で、所詮はフィクションなのだが、誰も本当のことはいえない。だけど、国民の多くはそのフィクションを素朴に信じているので、「国民の権利」が侵害されたと思うとやっきになって国家を攻撃するのだ。→このあたりに興味がある方は、佐々木毅『民主主義という不思議な仕組み』を読んでみてください。

p.269あたり
現実にはありないことを、いかにもあるようにみせるために「からくり」が必要になる。そのからくりとは、具体的な「一人ひとり」とは別に、抽象的な「みんな」をつくりだすということ。「世論」、「国民感情」などというものには実体はないが、それを誰かがつくっている。

p.269あたり
理想を語ると、それがかなえられていない「みんな」が生まれる。たとえば「平等であるべき」とされた途端、不平等な存在が生まれ、みんなが「平等」を追い求める。こうやって永遠に満足できない「みんな」が生まれる。

p.270あたり
本書は、「からくり民主主義」のもと、「みんな」の脇役になった(★「みんな」に入れなかった)日本人を描いたもの。現地で私がわからなくなったのは、民主主義が前提とする抽象的な「みんな」と、具体的な一人ひとりが語る「みんな」がズレているから。ズレとズレが重なり合って糸口が見えなくなるのは、民主主義の「からくり」によるところが大きい。

Marin Review 高橋秀美『からくり民主主義』新潮文庫2009
必読度 ★★☆(星2つ)

不思議な読後感の本です。

10編の独立したルポタージュをまとめたものなんですが、どのルポにも結論めいたことが書かれていない。それぞれのルポにおける著者のスタンス、言いたいこともなんだかぼんやりしていて、よくわからない。

だけど、本全体を見てみると、おぼろげにテーマが浮かび上がってくる(ような気がする)。それが民主主義の「からくり」です。

実はこの本、とても素敵なおまけがついています。なんとあの村上春樹が解説を書いているんです。

この解説がまた絶妙。著者である高橋の人柄はこう描写されています。

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p.273あたり
・高橋さんはちょっと変わった人で、いつも大きな体をいくぶん丸め気味にして「いや、ムラカミさん、困りました。弱りました。」といっている
・腕組みがとても似合う

この描写をみるだけで、春樹が高橋さんに好印象を抱いていることがわかるし(そうじゃなきゃ解説も書きませんよね)、読者である我々も高橋さんを身近に感じられるのではないでしょうか。
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春樹の解説を続けてみていきましょう。

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p.274あたり
・高橋さんが真面目に取材をして、たくさんの人の話を聞けばきくほど、結論がでなくなってくる
・しかし、ノンフィクションの書き手に求められているのは、「いや、弱りました、どうしたものか」という文章ではない
・でも僕には高橋さんの言いたいことが痛いほどよくわかった。
・僕がサリンガス事件を扱った『アンダーグランド』を書いたときにも思い知らされたが、世の中のものごとには多くの場合、結論なんてないのだ。
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僕は、この本を読んで、まさに春樹がいうように「世の中のものごとには結論なんてないかもしれないなぁ」と思ったのです。民主主義という制度の滑稽さにも改めて気づかされました。

収められているルポタージュは、「統一教会」、「オウム」にはじまり、「沖縄米軍基地問題」、「横山ノック知事セクハラ事件」、「富士山青木が原樹海探訪」など、日本の社会問題のごった煮のような様相です。

今回の誤読メモでは、あとがきのみを載せるという超変なまとめ方をしてしまっているので、個別のルポはぜひ本でご覧になってください。






誤読メモ→佐々木俊尚『キュレーションの時代』ちくま新書2011















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☆ご注意
・この「誤読メモ」は本の内容を僕の脳内フィルターに通してアウトプットしたものです
・本の文章の抜出ではありません
・僕が著者の意図を「誤読」している可能性もあります
・本の内容を確認したいときは、必ず原典にあってください
・★印はMarinによる注です
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p.21あたり
インターネットが普及してプロじゃない人の表現や発信が増えた。そういう世界では良い芸術作品、文章、楽曲を生み出すためには、「つくる人」がいるだけでは難しい。いい作品を「見いだす人」が必要。
★この「見いだす人」がこの本でいう「キュレーター」

p.43あたり
情報が共有される圏城(★この本では「ビオトープ」と呼ばれる)がインターネットの登場で細分化されている。適切なビオトープを見つけて情報を投げ込せば、コミュニケーションがはじまってフィードバックがくるけど、それを見つけるのはすごく難しくなっている

p.56あたり
「大衆」にドカーンと情報を投げ込み、それにつられてみんなが消費を行うというのは2000年以降成り立たない。いまは小さな圏城に情報の流れがある。

p.218あたり
コンテンツとコンテクストが揃ったときに、わたしたちはコンテンツをさらに深く愛せる。コンテクストはコンテンツのおまけではない。だからこそコンテクストをつくる人(★キュレーターと同義)が重要なのである。

p.248あたり
あらゆるものには「意味の境界」がある。ただ、「意味の境界」はつねに組み替えられ続けるべきだし、それは内側の論理によってではなく、外部のものによって作られるべき。この境界は外から情報をインプットするとどんどんゆらいでいく。このゆらぎが新鮮さを生み出す。
★意味の境界を変える→文脈を変える これもまたキュレーターの役割

Marin Review 佐々木俊尚『キュレーションの時代』ちくま新書2011
必読度→★☆☆(星1つ)

この本でいわれるキュレーターというのは、プロデューサー、ファシリテーターに近いものですね。

インターネットでたくさんの人がクリエイターになったいま、玉石混交のクリエイターの卵のなかから「ダイヤの原石」をみつけて、その原石が輝けるようにサポートしていく人が求められているのだ、というのがこの本の趣旨です。

ここでいうサポートとは、コンテンツにコンテクストを与え、それを発信するということです。ストーリーを与えるといってもいいかもしれません。

マーケティングの業界ではよくいわれることですが、あらゆる商品がコモディティ化してしまったいま、価格に見合った良い商品をつくっただけでは売れない。その商品にストーリーを与え、そのストーリーを潜在的な顧客に届けなくてはいけない。この役割を果たす人を、佐々木さんはキュレーターと呼び、そのような人たちがどんどん活躍していくことが必要だといっています。

僕がこの本を読もうと思ったのは、僕自身が「つくる人」よりも「見出す人」に向いているのではないかと思ったからです。

なので、いま、うちの曽根先生の授業をtsudaって世に送り出したり、こうやって本の紹介をして、なんらかの「ゆらぎ」を生み出したいと思っているのですね。(いつまで続けられるんやらw)

でもツイッターなどのおかげで、むかしよりも情報を受け取ってくれた方の反応が見えやすくなっているので、やりがいがあります。感想や反論など、なんでもよいので、レスポンスをもらえるととてもうれしいです。

これからもよろしくおねがいします。