2012年5月21日月曜日

教育にとって「経験」は決定的な要素ではない。―書評:北川智子『ハーバード白熱日本史教室』―

5月20日発売、北川智子『ハーバード白熱日本史教室』を読みました。

著者の北川さんはハーバード大学で日本史を教える非常勤講師。
大学は違えど、僕と同じ世代で同じポジションにある方です。

彼女は、32歳で、女性で、非ネイティブで、アジア系で、しかも非常勤講師というビハインドをものともせず、ハーバードで最も学生に支持された講師に与えられる「ティーチング・アワード」を受賞しました。

しかも着任した2009年から3年連続で!

ハーバードで教え始めたのは29歳。それまではずっと学生で、彼女に教育経験はゼロ。そんな新人教師が1年目で名だたる名教授を押さえて「No.1教師」になったのですから、とんでもないことです。どうしてそんなことができるのか。

その理由は本を読めば一目瞭然。

彼女は、学生たちが大好きで、教えることが大好き。自分に、そして自分の授業にプライドを持つ。最大限の努力をして授業に臨む。これが彼女の高評価を支えているのです。

彼女はこんなことを言っています。

学生はみんないい顔をしている。調子良さそうにしている子はもちろん、なにかに悩んでいて寝ていなそうな子も、若いエネルギーに包まれて、みんな輝いて見える。この子たちみんなによい将来が待っていますように。バックグランドも全然違う学生たちだけど、私にとってはみんなかわいい。彼らを愛する使命をひしひしと感じた。

毎日は足早に過ぎていった。教えることは本を読むよりも、先生に質問するよりも、何よりも価値があるように思えた。私は、自分が学生に伝えたい気持ちから、学生の反応から、たまに起こるハプニングから、日々いろいろなことを学んだ。がむしゃらに、できるだけのことをした。 

楽しむことは忘れたくなかった。笑う余裕も忘れたくなかった。このクラスのオリジナリティーは、私という人間の面白さにあると信じて教室の演壇に立った。その自信だけは絶対に失ってはいけないと、いつも誓った。毎回、自分ができる最高のことをやる。できなかったことは、次に引き継ぐ。自己最高記録は、いつも更新されるべきもの。本当にがむしゃらだった。
(北川智子『ハーバード白熱日本史教室』新潮新書、2012年、49〜50ページ) 

こんな先生に出会えたら本当に最高です。人生が変わります。

教壇に立って気づいたのですが、教師がその授業にどれだけのモチベーションを持って臨んでいるか、どれだけの準備をしてきたか、というのは学生さんにすぐにわかってしまうのです。

90分間学生さんの前に立ちしゃべるということは、90分のあいだ「評価され続ける」ということです。だいたい5分くらい喋れば人間のキャラクターがわかりますから、90分となると、もはやその人の人生そのものがわかってしまうぐらいです(笑)。いやはや、教員というのは恐ろしい仕事です...。

でもそれだけの責任があるということは、当然やりがいもあります。

僕はいま文教大学で統計の入門講義を持たせてもらっています。僕の授業で「統計ってつまんないや」と思えば、その学生さんは一生統計に苦手意識を持ってしまうかもしれない。逆に興味を持ってくれれば、仕事をやっていくときに大きな武器になるかもしれない。1つの授業が、学生さんの人生に大きな影響を与えるかもしれないということです。

僕が政治学者を志したのは、いまの師匠である曽根泰教先生と上山信一先生の授業が抜群におもしろかったからです。それ以外の理由は何もありません。大学に入ったときは思想史か社会学をやろうと思ってたぐらいですから。

ひとつの授業が学生の人生を変えてしまう。おそらく北川さんはその自覚を持っているからこそ、並々ならぬモチベーションをもって授業に臨むことができるのだと思います。こんな仕事、ほかにそうそうありません。僕も最高にやり甲斐のある仕事だと思っています。

★★
この本はとても密度が濃い本です。

学部時代は数学・生命科学専攻にも関わらず、アルバイトがきっかけで大学院では日本史専攻という北川さんの不思議な研究遍歴がコミカルに紹介され、"Lady Samurai"、”KYOTO”という魅力的なタイトルをつけられたハーバードでの人気授業の内容、さまざまな授業の工夫・ノウハウが詰め込まれています。

北川さんは、本のまえがきで、自分の授業が評価された理由として、①自分の歴史へのアプローチが斬新なこと、②コンピュータをつかった体験重視の教え方が学生の心をつかんでいること、③ハーバードの授業評価システムが人気に拍車をかけていることをあげています。

僕が特に重要だと思うのは③です。

オープンで公正な授業評価システムは、良い授業をやっている先生が適正に評価されるためになくてはならないものです。教員の給料は基本的に良い授業をやっても悪い授業をやっても変わりません。つまり、良い授業をやるためのインセンティブはただただ先生の「使命感」に寄っているのです。その弱い授業改善インセンティブをフォローするためには授業評価が不可欠なのです。そして授業を選ぶときのとても重要な指標にもなります。

SFCでは、SFC-SFSという授業支援&評価システムがあります。その結果は、すべての学生と教員に公開され、かなり辛辣なコメントもそのまま掲載されます。授業評価期間中のSFCの先生たちはみんなソワソワしています(笑)。この評価システムはSFCの自慢の一つです。(また最近注目されている教育支援システムとしてマナバというものがあります)

ただそのSFC-SFSの授業評価も、学生の回答率は平均して30%くらいとかなり低く、データとしては不十分と言わざるを得ません。みんな授業評価を参考に履修を決める割には、回答をしていないのです。これに対してハーバードの授業評価の回答率は高いようで、北川さんの授業では136人中119人が回答していました。この評価回答のインセンティブもしっかりとつけることが重要です。

★★
僕がこの本を読んで勇気づけられたのは、教育にとって「経験」は決定的な要素ではないということを確信できたことです。1年目の新任講師がハーバードでNo.1になれるのですから! そして授業評価システムの重要性も再認識。日本の教育は、多くの学校でモチベーションの高い新任講師が活躍できるような環境が整えられ、質の高い授業評価システムが機能すればずっとずっと良くなるでしょう。

教育に携わるすべての人に強くお薦めできる本です。





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