2012年9月2日日曜日

攻めて、待つ―リーダー待望論を再考する―

「政治家・橋下徹」の強さの源泉はどこにあるのか。

生い立ち、性格、頭の良さ、若さ。
よく挙げられるのはこんなところだけど、それは本質じゃない。

僕は、「政治家・橋下徹」の強さは、彼が持つ弁護士バッジから生まれていると思ってる。

職業政治家がもっとも恐れるのは落選だ。
彼らは落選した瞬間に無職になる。

エリートビジネスパーソンであれ、エリート官僚であれ、いちど政治家になれば、過去の職歴はリセットされる。議員のうちは「官僚出身」、「民間出身」ともてはやされるが、落選すればタダの無職の人である。輝かしい経歴がかえって再就職の足かせになるかもしれない。

もちろん、田村耕太郎のように、異常なバイタリティと自己顕示欲があれば落選後に大活躍ということもある。ただし彼は外れ値なのでデータとしては参考にならない。

もっとも悲惨なのは、市議会議員→県議会議員→首長→国会議員というコースを歩んできた人だ。このような人の稼業は政治家しかない。よっぽどのお金持ちで仕事をしなくても生活できるか、コネがある民間の会社で再雇用してもらえなければ、本当に食いっぱぐれになる。

では橋下はどうか。彼にとって落選は怖くない。なぜなら彼は弁護士としていつでも「社会復帰」ができるからだ。僕はこれが政治家・橋下の強さの源泉だと思うのだ。

落選を恐れる議員は、世論、支持者、利益集団、地元の顔色を見ながら政治家として活動していく。世論調査の動向に一喜一憂してビジョンを失い、支持勢力の圧力に屈して既得権に取り込まれる。多くの政治家はこうやって改革から遠ざかっていく。

橋下のほかにも「稼業」があるから改革を押し通せた政治家はいる。たとえば、竹中平蔵には「大学教授」という稼業があった。石原慎太郎もそうだ。彼があの歳まで豪腕を維持できているのも、彼が「作家」というキャリアを後ろ盾に政治家人生を進んできたからではないか。

もちろん彼らだって、落選は避けたいと思っている。でも、心の奥には「オレは政治家じゃなくてもやっていける」という強い思いがある。その思いが、世論と距離をとり、既得権勢力を寄せ付けないバリアになる。

いまの日本では、政治家に立候補するということは人生を賭けた「ギャンブル」である。自分のキャリアを捨てて政治家になっても、選挙に落ちれば即無職である。いくら志のある優秀な人材であっても、橋下のような「稼業」がなければ、合理的に考えて出馬は避けるだろう。

とても優秀で仕事がうまくいっているあなたの友人を頭に思い浮かべて欲しい。彼には小さな子どもがいて、来年2人目が生まれるとしよう。そんな彼が突然あなたに、「次の選挙に出ようと思う」と切り出す。あなたは強い口調で、「考えなおせ!」というのではないか。

「すべてを投げ打つ覚悟がなければ政治家になる資格はない」という人もいるかもしれない。しかし、政界を見渡して「政治家になる資格を持っている」といえる人物はどれほどいるのか。現在の混迷した政治状況は、このような不公平で非合理な政治環境によって生まれたのである。

橋下たちのような「稼業」を持っていなくても、優秀な人材が政界にチャレンジできるような環境をつくらなくてはならない。どんなに能力を持った政治家でも常に落選のリスクに晒されている。落選政治家が再起に向けて安定した環境で力を蓄えるには、シンクタンクや大学などの研究機関のポストに着くことが一番だろう。議員として政策過程のただ中にいた人物が、研究や教育の場に入ることは、社会にとっても大きな刺激となる。

これは口で言うほど簡単なことではない。多くのシンクタンクは収益体制が弱く、大学の経営も厳しい。落選政治家を受け入れるプールとしては心もとないのも事実だ。しかし、落選政治家を受け入れることによる宣伝効果、政界とのパイプづくりや教育面でのメリットなど、プラスの側面も数多くある。今後の動きを期待するだけの条件は揃っている。
優秀な人材が数多く政界にチャレンジすれば、それだけ優秀な政治家が現れる可能性は高まる。その環境を整えることが重要なのである。

日本には「リーダー待望論」が蔓延していると言われる。しかし、優秀なリーダーを期待することの何が悪いのか。市民による社会変革を期待するよりもよほど現実的で筋が良い。橋下徹は、弁護士バッジを後ろ盾に政界に殴りこみ、いまや日本国民が最も注目し、期待する政治家となった。

「バッジ」を持たないポスト橋下をいかに政界に呼び込むか。これを多くの人が現実の政治課題として認識して真剣に取り組めば、リーダー待望論を単なる夢想だと笑う人はいなくなるだろう。「座してリーダーを待つ」のではなく、「攻めてリーダーを待つ」時代が来たのだ。

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